津久見市議会 2022-12-13 令和 4年第 4回定例会(第2号12月13日)
6年生の社会科の学習に合わせると、鎌倉・室町時代の能や狂言が、江戸時代の町人文化を経て、現代に盆踊りとして伝わるという歴史的な側面を持ち、現在の津久見市においても、約450年の長い間、盆踊りで踊り伝えられているという文化に触れる貴重な体験となっております。扇子踊りの練習は6月後半から7月の上旬に行うことにより、地区の盆踊りに6年生が参加できるように計画しております。
6年生の社会科の学習に合わせると、鎌倉・室町時代の能や狂言が、江戸時代の町人文化を経て、現代に盆踊りとして伝わるという歴史的な側面を持ち、現在の津久見市においても、約450年の長い間、盆踊りで踊り伝えられているという文化に触れる貴重な体験となっております。扇子踊りの練習は6月後半から7月の上旬に行うことにより、地区の盆踊りに6年生が参加できるように計画しております。
江戸時代、中津日田往還――湯屋の辻と山国、そして、今の日田の豆田を結ぶ主要な道路であり、かつて山国町は木材と金山で栄え、耶馬溪線終点の守実温泉駅があり、湯治場として大変にぎわっていたようです。 合併時の山国町史発行に寄せた当時の町長の言葉ですが、「山国は古来、源流の町として山紫水明、風光明媚な自然環境を維持して今日に至っています」とあります。
また、本市が所蔵する江戸時代の諸記録や発掘調査資料には、かつての臼杵の災害の状況、それに当時の人々がどう対処しその予防を図っていたかを知る史料も多数あります。こうした史料は、臼杵市歴史資料館の常設展示室に常時展示し、市民の防災意識向上に努めるなど、現代の市民の安全な生活基盤を築くヒントになるよう活用を図っているところです。
山内流は、江戸時代の文政5年1822年、伊予、現在の愛媛県の旧松山藩主であった山内勝重から、臼杵で鑓奉行を務めた稲川清記に水術が伝授されたことから始まりました。以来200年、山内流を愛し伝えていこうとする人々の努力により、様々な困難を乗り越えて今なおその泳法が継承されています。
そして、最後の質問になりますけど、杵築市では江戸時代に杵築藩の財政を支えてきたと言われる七島いは、その歴史文化的価値からも後世に伝えることが重要であると思うんですが、この文化継承について現状はどうなっていますか。 ○議長(藤本治郎君) 矢守農林水産課長。
令和3年度は、公文書2件と、出土品資料で矢じりなどの石器が1件、その3件の申出があり、また、岩石や出土品で江戸時代の小宛焼の陶器、窯の道具と書籍などの5件の寄贈の申込みがあっております。いずれも貴重な資料と判断いたしまして、資料館でお受けをいたしております。 本年度の現時点では、1件の古文書の寄託申込みと豊後大野市の岩石類、薄片が1箱です。
古代から江戸時代、そして現代へと続く道しるべを作って、そういったコース設定をすれば、地域の魅力アップにつながるのではなかろうかと思います。この活用についてお伺いします。 ○副議長(大塚正俊) 教育委員会教育次長。
◆5番(坂本哲知君) この前、大分合同新聞にも掲載されたと思うんですが、大田の西俣水区のイナゴ供養塔、石書醍醐妙典蝗蟲供養塔のこの供養塔は、明和3年、1766年ですから江戸時代後期に建立され、怨霊を供養し稲の害虫、ウンカを退散させるために造られました。このような供養塔は全国的に珍しく、九州では、ほかに3件確認されております。令和2年に杵築市指定文化財の申請書を提出していると聞いています。
えるんじゃなくて、きちんとしたグランドデザインを、そしていろんな文化財であるとか、それから観光であるとか、また学術の権威の人たちも入ってもらって、時間はかかるかもしれませんけど、しかし、それは早く結論を出したいとは思いますけれども、いずれにしても、衆知を集めて杵築市全体の文化財のある場所、それから、経年劣化をしているところもありますし、それから、今すぐ宿泊ということになると、建築基準法ができるはるか江戸時代
江戸時代中期から後期にかけ、幕藩体制下、各藩の財政難が深刻になり、全国諸藩が抜本的な改革に取組をいたしました。上杉鷹山の米沢藩や山田方谷の備中松山藩、幕末の長岡藩、米百俵が有名でもあります。各藩共通していることは、オリジナルな産業振興政策と人材育成であります。特に熊本藩の人材育成の教育方針、教育は、川のこちら側にいる若者を社会という向こう岸に渡すこととあります。
なお、臼杵城下町の中核であります県指定史跡臼杵城跡の本丸、西の丸は、16世紀の大友宗麟の築城から江戸時代末期までの遺構が残り、歴史文化的価値の点で、専門家から国指定の可能性もあるとの見解をいただいております。 つきましては、この城泊の取組と並行して、国指定に向け、取り組んでまいりたいと考えております。
ハモは貴重な食の観光素材でありまして、小骨を下処理する、いわゆる骨切りと呼ばれる技法は江戸時代に、この中津で生まれ全国に広まったと言われるほど、ハモの食文化は中津にとって歴史があるものでございます。中津市の食の観光を代表する素材として、これまでパンフレットやホームページ、そしてハモフェアなどキャンペーンを通じてPRを行ってまいったところございます。
中津は、大和朝廷時代に「分間(わくま)の浦」との名称で港が開かれ、江戸時代には「西の博多、東の中津」と言われるほど、日田地方をはじめ九州一円から関西方面へ荷物を運ぶ海上輸送の拠点として発展をいたしました。 時代が変わって現在では、マイナス11メートル岸壁の国際物流ターミナルなど大小五つの岸壁を持ち、また、高速道路まで信号二つでつながる非常に交通利便性の高い港となりました。
私も、幾つかの戦国大名館や江戸時代の城跡などを訪れたことがありますが、いずれも個性的な庭園や建物などが整備され、当時の様子をしのぶことができました。本市の大友氏遺跡は、県都玄関口であるJR大分駅から徒歩15分という至近距離にあり、こうした大友氏遺跡の立地は、今後の利活用に大きな期待を抱かせます。
私も、幾つかの戦国大名館や江戸時代の城跡などを訪れたことがありますが、いずれも個性的な庭園や建物などが整備され、当時の様子をしのぶことができました。本市の大友氏遺跡は、県都玄関口であるJR大分駅から徒歩15分という至近距離にあり、こうした大友氏遺跡の立地は、今後の利活用に大きな期待を抱かせます。
まず、臼杵城跡については、16世紀後半の大友氏時代の遺構から稲葉氏時代の19世紀、江戸時代末期までに形成された遺構が重層して残されており、現在、県史跡として指定されています。 大分県文化財保護条例では、遺構の現地保存を行うように定められており、これを踏まえて本市が策定した県指定史跡臼杵城跡保存整備計画では、江戸時代の遺構を保存整備することを基本としています。
最後、それから教育の面では、今月号の市報にも書きましたけども、江戸時代の屈指の天文学者の麻田剛立が生まれて、それから御典医をしていました。そして脱藩して大阪に出るわけですけども、それと、隣の国東市の安岐には三浦梅園がいて、この方ももちろん哲学もありますけど、天文観測もして、二人は非常に仲がよかったということですので、教育の部門でその三浦梅園と麻田剛立のそういう講演会です。
そして、合わせまして、食べ物としましては、おにぎりとか、今考えておるのが味噌汁でありますとか、団子汁とかでありますとか、そういう軽食、江戸時代でありますが、そういうふうなちなんだものを考えているようであります。そしてまた、宿泊施設として、これは2階でありますが、本当に十分ではないかもしれませんが、しかしこれは1つの最初に取り組むということで、ここを宿泊施設、レンタル的なスペースとしてお貸しすると。
学習先の臼杵市には江戸時代の稲葉藩の資料が残されており、多くの古文書や古絵図があります。その中に被差別部落に関する表記があり、現在でも江戸時代の遺跡や古環境をうかがい知ることができるとしてコースが設定されております。
1771年、江戸時代後期に府内藩の藩校として下段記載の変遷図における①の場所に学問所が設けられ、学問所はその後、采芹堂と称されるようになりました。その後、焼失などにより再建を繰り返しながら、1857年には遊焉館として下段変遷図③の北之丸御殿に設置され、その後、1865年には変遷図⑤の現在の旧知事公舎付近に移転されております。明治4年には廃藩置県による府内藩の廃止により、遊焉館も廃止されております。